大阪マラソン走ってたり応援してくれてた人もいたのに、なかなか会えず申し訳ない…。やっぱ3万人以上の規模になるとなかなか大変ですね。
そんな中でも私に気がついてくれた人もいたのですが、よーーく見つけましたね!びっくりしました!!!
皆さんお疲れ様でした!
なんだかんだフルは約一年ぶり。次は東京マラソンなので3ヶ月後くらいにはまたフルマラソンですが!やっぱりフルマラソンはしんどい!!笑
でもまた走っちゃうんだよなーーなんでだよぉー。
昨日は、今までの中でもなかなかに苦しいマラソンでした。私のコンディションの問題だとは思いますが。長距離練習はバッチリだったはずなんだけどなぁ。まぁそういうこともあるよね。ほんと走ってみないとわからん!!
写真もたくさんあるので、また改めてブログにまとめまーす👌🏻
ひとまずみなさまお疲れ様でした💕
フル マラソン 練習 長距離 在 夢運び隊リキシャーズ Rickshaws of Journey Facebook 的最佳解答
【クラウドファンディングスタートまで6日です】
少しこれから、6日間アピールと
カウントダウンさせていただきます😁
「すいませんお邪魔します。」
人力車で世界一周する大ばか者が、どんな人間なのか?w
語りたいと思います。
語彙脱字が、あればすいません。
※話すのは、好きですが…作文は、かなり苦手です。
☆今日のテーマは、「自分の経歴Part1」
まあ!!興味があれば、暇つぶしでも構わないので見てください。
自分は、1990.05.07京都で生まれました。窪塚洋介さんと同じです。
名前は、鈴木悠司です。ガッツ石松さんと同じです。
幼い頃は、よく女の子に間違えらました。
素敵な家族に恵まれ困ることなくすくすく伸び伸び育ちました。
ユーモアなオカンに恵まれて、とにかくいろんなところへ行きました。
京都で有名な大人の街”祇園”へは、なんと1歳からデビューしています。”笑”
今、思うとホント羨ましい。そのおかげで、入れるお店があるので感謝です。
※一見さんお断りで有名な場所です。笑
オカンとは、海、山、川、大人の街、細くいうと、スナック、居酒屋、カラオケ、ボーリングとにかく
飽きることなくず〜っと保育園、小学生の頃から、遊んでたイメージです。
そのせいか、今では多くの方と繋りがあり改めてその時の経験が、今になり生きています。
早くから、お酒の場にいたので、好きな食べ物は、焼き鳥、たこわさび、イカの塩辛、お刺身、です。笑
遊びすぎたせいか、勉強は、かなり苦手です。椅子にじっと座ることができないです。
得意な科目は、ありません。唯一マラソンだけが、得意でした。w
小学校の成績は、本当にやばくて…頭の形が、悪いせいやと真剣に想ってました。(頭の形が、絶壁なんです。)
勉強は、少し開きなおってもいました。w
すぐ影響されるので、ヤンキー漫画や、クレヨンしんちゃんなどを見ると勇気が出ました。w
自分の人生においての初めてのターニングポイントは、8歳の頃です。
初めて、オカンにJリーグ(プロサッカー)の試合に連れて行ってもらいしました。
今でも、忘れません…。感動して涙が、出るとは、このことでしょうか!!!
マジで泣きそうなくらい感動しました。京都サンガに(当時は、京都パープルサンガ)三浦知良選手(キングカズ)が、
いた頃でサンガの逆転勝利の試合でした。(京都パープルサンガ 3-1 ヴィッセル神戸 (三浦知良2得点、藤吉信次))
その時に、オカンに「俺、プロサッカー選手になるわ!!」と言いましてグッズ売り場で購入した紫のミサンガに夢を念入れ結んだことを今でもはっきり覚えています。
今想うと、あの時に、オカンにJリーグに連れて行ってもらってなければ、どんな人間になっていたか心配です。笑
それからというもの、一気に生活が、サッカーの一筋でした。J−マルカというクラブチームに入りました。
サッカーチームも自分で探し見つけて、初めて親なしで、自分一人で行動しました。
それくらいサッカーしたかったんやと思います。
「入団の時、おもろかったな〜。入団する際に、学年を間違えてはじめ1個上の学年で練習していたのを覚えています。笑
その上、サンダルで練習に行きまして気合でボールを蹴っていました。w」
ここで出会った、仲間や指導者には、ホント感謝してます。
とにかく夢中になり学校へ行く時も、どっかのユニホーム着たり、休み時間は、サッカーしたり、暇あれば家のガレージ前でボールを蹴っていました。※きっとサッカーしてた人は、同じやと思います。笑
一度オカンの車のサイドミラーにボールが、あたり取れてしまったことを覚えています。
ここで、人生で初めての土下座をしました。笑
中学になり、少しですが反抗期という時期でしょうか、
あんまり一緒にいるのが、嫌になりました。あ!オカンと!
頭も悪いし、悪いことも嫌いじゃなかったけどサッカーをしていたせいか、
そこまでグレることもなく警察などにお世話になることもありませんでした。
中学では、最高成績が26です。オール3を目標にしましたが、マジで無理でした。
サッカーのクラブチームに成績を提出するんですが、
何度か友達の成績表を名前だけすり変えコピーし提出した覚えがあります。笑
もし、この文章をコーチが見ていたら「あの時は、すいませんでした。」笑
高校には、サッカーをしていたおかげで、"物凄い野球が強い高校"へと学費免除で入れました。笑
「野球かい!!!!」※平安高校です、(現在、龍谷大学平安高校)
サッカーも弱くは、なかったので真剣に全国を目指して頑張りました。
残念ながら、全国へは、行けず最高成績もベスト4で終わりました。
そこまでカッコイイこと言えるほどうまくなかったですが、
今でも、全国へ出れなったことは、悔やみますし夢にも出ます。
かなりの練習量が、多いのと筋トレや走りが多いチームでしたので、
今、人力車をしていて物凄いそれが、生きています。
あの時のエグいフィジカル練習は、ここに繋がるのかと少し感じています。笑
部活の仲間が、走りすぎて「流れ星が、見える」って言うたのは、今でも忘れていません。笑
あと…この時期に
高校卒業と同時に初めて人の死というのが、どんなものか 感じました。
今でもホント後悔してて高校卒業式後に部活の卒団式があり、そのあと
友達何人かで、なぜか心霊スポットへ行きました。
その時は、何も起こらなかったんですが、自分自身は、すごく嫌な雰囲気を感じました。
朝、お家に帰宅し布団に入った直後に警察から電話が来ました。
内容は、おじいちゃんが、交通事故で今朝亡くなったのこと…。
その時に、なんて言えばいいかわからなくなりとにかく頭の中で、泣かずに"無"を感じてました。
当時、mixiが今のフェイスブックみたいに流行していてmixiニュースに自分のおじいちゃんが、
トップニュースで上がってた時は、さすがじいちゃんと!!感じました。
「サッパリや」が、口癖のギャンブル好きの楽観的な長距離トラッカーでした。
この時に、心霊スポットは、行かないほうがいいと思いました。
大学に入り、居酒屋のバイトも始め大好きなサッカーもまだプロを諦めずにしていましたが…
ここで、人生で初めての挫折を味わいます。
やはり大人になると少しづつ分かってくるんですね、
自分がプロになれる選手かなれない選手か…
でも、諦めきれない自分が、いました。足が二回折れても続けました。
今でもボルトが両足に入ってます。勝手に"ボルト鈴木というサイン"を作りました。
一番したいことが全然うまくいかず、大学では、居場所がない気がしました。
でも!!!諦めるのは、嫌いなんで応援団長したり人生で初めての坊主にしたりどこかしら楽しみを見つけ
日々を送っていました。大学生活も終盤にきて、このままじゃあかんということで、
心に決め”オカン"に聞きました。「俺…どうしようか?」するといきなしオカンがぽろっと
「"ブラジル"でも行ってきたら?」っと…俺は、まさかの発言にビックリしましたが、それと同時に
なぜかワクワクしました。昔から三浦知良選手やキャプテン翼に影響され
小学生の頃、ブラジルには、行きたいって言ってましたが、まさかのこのタイミング!!!
いや…むしろこのタイミングやと感じました。オカンは、送り出す際に「原点に戻ってこい!!」と言い
俺は、部活を夏休みの期間だけ休部しスパイクとポルトガル語の本を持ち30万を握りしめて
宛てもなくブラジルへと突っ込んで行きました。今思うとあの時の自分は、マジでチャレンジャーです。
むしろ何も知らなかったからできた行動やと思います。
ここでの話は、半端なく長くなるので少し飛ばしますが、
結果としてアメリカの空港で(トランジェト)ある日本人の方と出会いまして
ブラジルまで一緒に行くことになり、サッカーチームも紹介していただき
ブラガンチーノという2部のチームのユースへと1ヶ月間参加することができました。
寮に入り、ブラジル人と暮らし、まさかのネイマール(ブラジル代表)とも面会させていただくことにもなり
今思うとマジで意味がわかりませんが…笑
すごい良い経験が、できたのと純粋に久々にサッカーを楽しむことができました。
もし自分が、"アナザースカイ”に出れるなら間違い無くブラジルと言うでしょう。笑
これが、自分の初めての一人旅でした。
さすがに短期間の留学では、レベルは上がりませんでしたが、自分の中で決心がつきました。
「もうサッカーは、これで終わり。」ここで、初めて進んできた道にピリオドを打ちました。
同時に新たにしたいことが、見つかりました。それは、バックパッカー(旅人)です。
この時、すでに大学4年でした。ほぼ周りは、就活の時期でした。
さすがにこのタイミングで?って思われるかもしれませんが、
やりたいと思った時が、ベストなんです。その考えからか、一切就活をしなかったです。
まっすぐに旅人の道へと進んで行くはずでしたが、ここに来て新たなる経験をすることになります。
自分は、ヨーロッパに行こうと決め、
バイトを4つ掛け持ちし、急いでお金を貯めていました。
ある日、オカンと話しててオカンが、「ヨーロッパでなんかしながら旅したらいいんちゃう?」っと…
自分は、一度ブラジルでうまくいったせいか、とにかく何でもできると思ってました。笑
ほんと幸せなやつです。2人で考えた結果、ヨーロッパで国際交流として折り鶴を集める旅をしようと
なりました。そこでまたもや、オカンが、スパイスを加えてきました。「その折り鶴を被災地へと届けたらいいんじゃない?」
という話になってきまして…………はい。知ってる方もいると思いますが、
これが、きっかけで4年前に”鶴のひと声"という団体を立ちあげて”折り鶴10万羽プロジェクト”が、始まりました。
この話は、きっとフェイスブックのタイムラインを相当ハイジャックしてしますので、シンプルに行きます。笑
人生で初めての社会活動??そうですね。ひょんなことから、被災地へ訪問し初めて考えさせられた日本の現状。
今までニュースで見てた景色とは、全然違いました。こんなにも、同じ日本にいて違うのかよ!!っと感じで
居ても立っても居られない自分は、とにかくこのプロジェクトに全力を注ぎました。
何ならヨーロッパに行くことよりも、どうすれば折り鶴が集まるのか考えていました。
路上や、つながり、SNS、イベント、メディアなどで結果的に半端ない数になりました。
もちろんヨーロッパでも旅人や日本人学校、外国の方から集めました。
計15万羽近く集まり、東北へとクリスマスに届けました。
プロジェクトが、終わった際にすごく達成感もありましたが、同時にものすごくむなしくもなりました。
結局その時が、盛り上がっても被災地の状況は、変わらないし所詮折り鶴なんやと感じましたし
社会活動って、ボランティアって難しいなと学びました。
その時に協力してくれた方々には、すごく感謝してますし、今でも大事にしていきたいです。
※https://youtu.be/ga5woL7FUCU ※東北へ届けに行った際の動画です。
こうしてあっという間に自分の大学生活は、終わりました。
はい!!もちろん卒業は出来ました。これもまたびっくりな話で、
確実に卒業は、厳しいと感じてました。可能性が、4年後期でフル単位を取らないと
卒業できなかったからです。でも、なんとかして留年だけは、
避けたいのと親に悪いとすごく感じまして先生全員に自分が、作成したアピールDVDと手紙を渡し
卒業の発表日まで信じて待ちました。卒業ができることを知りマジで嬉しかったです。
この時、22歳です。
さあ!!いよいよ東京へ出てきます。この話は、また来年!!あああ!ッ!明日にします。
ここまで読んでくださりありがとうございます。あまり長すぎると疲れますね。
フェイスブックのタイムラインを多く使いすいません。
明日は、この続きをUPしたいと思います。「自分の経歴Part2」
やはり忘れないですね!!英語の単語は、すぐ忘れるのに。笑
自分を見つめ直すいい機会です。
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東京力車 世界一周 人力車 俥夫 鈴木悠司
プロジェクト紹介ムービです。
https://youtu.be/iZXkHznkegk